Water Diary

水を通して見える世界の話を、日記に綴ります

水ビジネス最前線


そうした中で、3ガロン・5ガロンによる往復便も、日本ではその姿を消そうとしています。アメリカで発達したガロンボトルによる「水宅配事業」は、今や完全に公共水道に取って代わっています。また、元々公共水道を持たない国々でも、「水道」に代わる「飲食用水」の供給法として、このボトルが大活躍をしています。「飲食用」に使う「水」の供給には、大型の容器が不可欠です。また、日常的に使うものですから、「使い捨て」容器では不経済なだけではなく、誰もが「Mottainai」と感じるため、ガロンボトルは世界中で普及しています。
ただ日本だけは、このボトルが定着する機会を逸してしまいました。それは、端的に言うと「日本の宅配水事業が、アメリカのように公共水道に取って代わる」という「大志」を抱かないまま、見当違いな商売に終始してきてしまったからに他なりません。

「水は儲かる」と考える人たちにより、日本では「都会の水道水を逆浸透(RO)膜で濾し、瓶詰めにする」という安直な方法が取られました。「製造工場を消費地に建てれば、運賃を最小化できる」。そうした皮算用で商品化した「瓶詰め水」を、箔を付けて高く売る。そのために、ウォーターサーバーを無償で貸す。この「見え透いた商法」が、人々の「良い水を飲みたい」というニーズを満たすことはありませんでした。そして、皮肉にも「水があまりに高かったため、折角高いサーバーを無償で貸しても、その元手の回収すらできない」という「お粗末」な「商売」となってしまったのです。この「割の合わない」商売は、サントリーやオリックスが手がけても、同じ結果を招くことしかできませんでした。
結局、足掛け30年にも及ぶ、日本版「ガロンボトル宅配ビジネス」は、「時代の要請」に応えることのないまま幕を閉じようとしています。そして、このビジネスに最後の引導を渡したのは、インターネット通販の隆盛と運送会社の運賃値上げといった「潮流」だったことも付け加えて置きます。

(つづく)


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水ビジネス最前線


⚫ガロンボトルビジネスの崩壊

今年6月に発表されたサントリーウォーターレポートは、「宅配水」の現状をこれ以上ないほどに露わにしました。当のサントリーが、「ジャパネットたかた」を通して売り出したサーバー対応の宅配水が不発に終わりました。また、オリックスが前代未聞の高額で、コスモウォーターから買収した「宅配水事業」も「鳴かず飛ばず」のままです。その結果を受け、「宅配水の利用者は、前年の7.8ポイントから1.2ポイント減らし、6.6ポイントへ減少した」ことを、ウォーターレポートは記しています。一方で、「2016年は、国産ミネラルウ ォーターの生産量は増加。一人当たりの消費量も過去最高となり、10年前と比べ1.5倍となった」ということですから、一人負けとも言える「宅配水の衰退」は否が応でも浮き彫りとなりました。

この結果を、あなたならどう解釈しますか?
私は、ミネラルウォーター分野で圧倒的な強さを見せてきたサントリーが「満を持して」宅配水事業に参入した訳ですから、この市場でも「強さを発揮する」ものと考えていました。が、結果は惨憺たるものでした。サントリーの参入によっても、「宅配水市場は大きくならなかった」ばかりでなく、二つの大企業が「テコ入れ」をしたにもかかわらず、「宅配水の利用者は、(逆に)前年より減少」してしまったのです。何らかの「活性化」をもたらすだろうという期待と裏腹に、サントリーの参入とその惨敗は、この業界の崩壊を示唆するものとなりました。6.6ポイントという数字は、それほど「小さい」と言う他ありません。この数字の中には、アクアクララやクリスタルクララやフレシャスウォーター等々まで含まれているのですから...。

(続く)


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民主主義経済


私たちの生きている社会は資本主義社会で、その社会では当然ながら資本主義経済が通用している。

この資本主義社会は、民主主義社会と同義であるという「化けの皮」を被っている。否!この言い方は正確ではない。資本主義社会では「教育を通じて」、資本主義と民主主義は「同一のもの」という「教え」が為されてきた。そして、人々はその「教え」を完全に「真に受け」、疑うことを知らないまでに至っている。
だが、名は体を表す。資本主義社会の主人公は、言うまでもなく資本家であり、「お金持ち」だ。そして、資本主義経済下では、政府が、「資本家が上手に儲ける」ことができる「仕組み」作りを、推し進めてきた。それは、本来、国民を主人公とする民主主義と相容れるものではない!民主主義経済という「概念」を定義して資本主義経済と対置させれば、その「不可逆的」な関係性は一目瞭然となる。

資本主義社会で言う資本家とは、「一握りの人々」だ。資本主義社会では、その「一握りの人々」が営む「大企業の利益」が最優先される。だから、国は税金を使い手厚い優遇策を大企業に注ぎ込んできた。とは言え、税金を注ぐだけで「大企業」が十二分に「その地位」を維持できる訳ではない。企業が大きくなるためには、人的な確保、技術的な蓄積等々が不可欠だからだ。そのために、大企業を頂点とし、それを支える中企業・小企業によるピラミッドが形成されるに至った。

その過程の中で、私の言う「民主主義経済」というものが一時的ではあるが「実在した」。そこには、「日本の敗戦」とその結果として受け入れた「民主主義」という概念が大きく関わっていた。
焦土と化した国にも、「国破れて山河」が残されていた。そして、「剥き出しの資本主義」を押し立てて、無謀な戦争を遂行した政府要人たちは「戦争犯罪人」として裁かれた。国粋主義から解き放たれた国民は、「生き抜く」という命題を前に、「無手勝流」であらゆる「生産活動」に、全員参加で臨んだ。「草の根の生産」は、必然的に「草の根の販売者」を生み出し、旺盛な需要に対し、必死に供給を間に合わせていくために、生産者及び販売者の層を分厚いものとして行った。当然のことだが、この時代「純粋な消費者」などは皆無に等しかった。大半の国民は、生きていくための最低限の消費はしたが、同時に生産者であり、販売者として供給側を支えた。だから、この「経済」は、一つの「ロスもなく」合理的に回った。そして、これが「内需の拡大」という状況を生んだのは言うまでもない。

日本の驚異的な「戦後の復興」の素地は、この「民主主義経済」の勃興に拠って形成されたと、私は述べたい。だが、翻って現在の政府による経済運営を見る限りにおいて、そこに「民主主義経済」の痕跡を見出すことはできない。私たちは、紛れもなく、資本主義社会に暮らし、資本主義経済下で必然的に生じる「貧富の差」を否応もなく受け入れさせられている。そして、その傾向は今後共深まっていくことはあっても、軽減されていく方向性は見いだせない。その事実を、もっと早い内に、もっと多くの人が認識しなければならないという点を、私は指摘したい。

それはなぜか?大企業の寡占の裏で、多くの生産者が廃業をしている。生産の要である農業から、多くの人が離脱するのを、この国の政府や政治は「見て見ぬふりをしている」。それで、「経済が円滑に回る」道理はないではないか?「冨」とは「無から有を生み出す」「生産」という行為抜きには「生じない」。今日本で行われている経済活動は、日本が営々と築いてきた「遺産」を食いつぶすことで成り立っている。それが証拠に、100年を超える「老舗」が人知れず、店じまいをしている。「時代にそぐわなくなった」「時代遅れの経営」が倒産の理由とされる。だが、本当のところは「そうじゃない」。無数にいた生産者が後継者を失い、今の担い手である老人たちの引退を最後に廃業をして行く。その引波の速さ、変化の速さに圧倒されて「目には見えない連鎖倒産」が、そこかしこで続いているというのが実態だ。

そんな中で、「大企業だけ生き残らせて、この国に未来がある」とお思いか?生産者も販売者も減らし、消費者だけが増える。そうした潮流を打ち消す、具体的な策を明確にしなければ、この国は滅びる。と同時に、資本主義を標榜する先進国もまた、同様の道を辿ることは免れない。
この危機を乗り越えるために、私は「民主主義経済」という概念を確立して行くことを、世界中の人々に呼びかけたい。ほんの「一握りの人」に翻弄されることを良しとしない世界中の人々が、「民主主義」という曖昧な概念に代わり、「民主主義経済」という概念に具体性を持たせていく。そこに「世界中の頭」を集中させて行く。「民主主義」と「多数決」は、決して同義ではない。が、「多数決」があたかも「民主主義」の代名詞とされているところに、「資本主義と民主主義が同義」とされていることにも通じるトリックが「ある」。「民主主義」とは「全員参加」を前提としている。そして、それが「民主主義」の原点だ。だが、その民主主義を政治に活かそうと考えた時点で、「直接民主主義」と「間接民主主義」という言葉が生まれた。が、実際は「直接民主主義」は確かに民主主義そのものだが、「間接民主主義」は「民主主義とは似て非なる」ものだ。にもかかわらず、この「間接民主主義」を政治の世界で「民主主義」として、認知させてしまったことで、たとえばアメリカでは多くのロビイストを産み、日本では政治献金の名のものとで、資本家や金持ちが「間接的(実は直接的)」に政治を自分たちの「都合の良い」ものとしてきた。

それを「経済」という面から、捉え直してみよう。政治の世界で「直接民主主義」を退けた理由は、「全員参加」を政治に組み込むことは「不可能だ」という「詭弁」だ。この「詭弁」は、政治が「教育」を通して浸透させてきた。だが、「経済」と言う面では、「全員参加」を盛り込むことは不可能ではないことは、前述した日本の戦後の経済を見れば分かる。と言うよりも、この全員参加型の「民主主義(的)経済(活動)」の方が、「需要と供給の一致」という点で、普遍性がある。私は、資本主義経済よりも、遥かに実用性も実効性も継続性も高いと思う。だが、それはいつの間にか「資本主義経済」に取って代わられていた。政治の世界が、剥き出しの資本主義を標榜する者たちによって、改めて支配されることとなり、「民主主義経済」が政府により駆逐されたからに他ならない。

だが、そのことによって矛盾が生じ、弊害が露わになり始めた。「貧富の差」が歴然としてきただけでなく、貧者に消費をするための原資が渡らなくなってきてしまった。国が税金を大企業優遇策に充てるだけではなく、貧者にも社会保障のために税金をつぎ込まなければならない事態が、「必然的」に生まれてしまった。無数の草の根の生産者を廃業に追い込み、その生産量を大企業へ集約させることで、利益も大企業に集中させる。その結果、経済は歪なものと成り果てた。消費するためには「お金」が不可欠だが、「草の根経済」からはじき出された人々は、収入も絶たれた。つまりは、消費をしたくとも、それができない。

「民主主義経済」の内包する「需要と供給の一致」で「合理的な成長」を遂げた経済が、剥き出しの「資本主義」によって食いつぶされてきたと言って良い。そして、原理化した「資本主義」は、今アマゾンに見られるように、「超巨大企業が他の大企業の利益までもかき集めてしまう」という圧倒的な流れを生じ始めている。そして、そうした超巨大企業は、「システムの自動化」「ロボットやAIの導入等」を通じて、「あらゆる経済活動から人を締め出す」方向へと突き進み始めている。これが、アメリカの主導する「グローバル経済」の「行き着く先」だ!私たちが、もう何十年も前から目にしてきた、ハリウッド映画が映し出す「暗い近未来」。それが「現実」として、もう目の前まで迫って来ている。

この流れは、指を加えて見ていては「止まらない」。これを「止める」ことができるとすれば、「民主主義経済」を広範な人々の支持する「概念」として確立し、実践していくことをおいて他にない!

剥き出しの資本主義が、より原理化して行く中で、人々の「拝金主義」は膨張を重ねている。それが、「貧富の差の拡大」をとめどないものとしている。大半の人々が、消費するに十分な「原資を得る術」をもぎ取られるに至っている。これが、「拡大はするが、成長(=インフレ)を伴わない経済」の正体だ。これは、世界中の先進国(先進資本主義国)で、共通に起こっている事象だ。そのため、各国政府は選挙時の「経済動向」一つで、いきなり「不信任」を突きつけられたり、不人気を盛り返したりする。だから、当選を果たしても、偽りの経済運営(=税金を投入して、粉飾を繰り返す)から「足を洗う」ことができない。また、「ポピュリズム(=大衆迎合主義)」を掲げる政党や大統領が突然のように表舞台に躍り出る。トランプ大統領の登場などは、その「象徴的」な事例だ。

繰り返しになるが、この流れを「止める」ことができるのは、「民主主義」を隠れ蓑に利用している「資本主義」から、「民主的(=全員参加型)経済」を取り戻し、「民主主義経済」を確立する他はない。

それは、はたして難しいことなのだろうか?私は、本当は「とても簡単」なことだと思う。世界は「思い込み」でできているに過ぎないからだ。私たちの信じる「民主主義」は、「民主主義経済」抜きには達成されない。そして、「民主主義経済」は、「直接民主主義」に担保されないかぎりは実現できない。まして、「資本主義」と「民主主義」を同一視するような「頭」からは、何も生まれないのは自明だ。だが、その「自明」なことに、私たちは「気付くことなく生きてきた」。

最後にもう一度同じことを言う。「民主主義経済」というものを、各々の、そして数多の人々にイメージしていただきたい。そして、それが如何に「合理性」や「実現性」に富んだものか?に思いを馳せていただきたい。そうした考えが、世界中の人の頭に宿れば、世界は「瞬時」にして変わり得る。だから、もし、この一文に触発されるものがあったなら、あなたの回りの人々にも伝えてほしい。そうして、「民主主義経済」の概念が地球規模で広がりと厚みを獲得して行ければ、「世界は、平和裏に、そして、すっかり変わることができる」はずだ!

(完)


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インターネット通販と代理店商法


とは言え、政治に対し「泣き言」を並べても始まらない。私は、製産者という観点から、多くの人に「生産に従事する」ことの重要性を呼びかけたい。物を作り出すことが、人間の頭を如何にまともに保つことか?「生産のない」経済など成立しない。この当然至極な事実すら、今の日本人には理解ができない。だからこそ、第一次産業に即した生産に、もっともっと若い人が活路を求めて飛び込んで来る様な「誘導路」を示したい。そのために、ネット通販を、小規模生産者が自立して行くための場として「駆使する」ことを唱えたい。

世の中が、消費者ばかりでは地球の資源は使い果たされてしまう。持続可能性とは、「お天道様と水と土地と人力」があれば、未来永劫に渡り、収穫を続けられる「農業」のような生業を中心に据えることでしか達成されない。その意味では、地球を舞台に輪廻転生を繰り返す「天然水」を供給する事業は、持続可能性を「絵に描いた」ような生業だ。

この稀有な事業に心ある若い人たちを迎え入れたい。利用者が使いたいと思える価格で、「天然水」を供給する。その「一点」さえ、成し遂げれば、この事業は一人歩きを始める。なぜなら、この「理に適った」事業は、そのことを生産者が「理解する」ことで、供給の対象を瞬く間に全国民に広げることができるからだ。だから、これほど将来性に富んだ「事業はない」。そして、これほど「歪んだ現実」を正し得る「事業もない!」

(完)


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インターネット通販と代理店商法


日本の食料自給率は、「極めて低い」。だが、その昔日本の食料自給率は、「100%」を長らく堅持し続けていた。それは、第一次産業を支える小規模生産者が無数に居たからに他ならない。無数の生産者が居れば、その産品を商う人(販売者)も必要不可欠な存在となるのは、言うまでもない。その産業構造を変え、結果的に日本の食料自給率を「地に貶めてきた」のは、日本の「政治」だ。
世の中は、「グローバル」に動く時代となっている。その時代に、他国から「安い」産品を輸入して売れば、自国の産品は売れなくなるのは当然ではないか。その結果、生産者は廃業に追い込まれる。巷では、これを「自由貿易」と呼ぶが、この自由は、誰がための自由なのか?私には「皆目分からない」。

「安全保障」と言うと「軍事力」を真っ先に頭に浮かべる人は多い。だが、私は、「食料」こそ「安全保障」の根幹を成すものだと考えている。なぜなら、食料の供給が途絶えれば、現代人は、即生命の危機に直面してしまうからだ。それは、「戦争の勃発」が無くとも訪れるという点で、はるかに現実的な「危機」だ。資本主義による経済偏重や競争が進む中、地球温暖化は紛れもなく加速を始めている。海水温の上昇は、台風の巨大化を始めとする風水害や森林火災を深刻化させている。また、農地の放棄が進む中、産地が風水害で痛めつけられ、収穫ができない事例なども枚挙にいとまがない。

「食糧危機」は待ったなしでやって来る。それは、超大国アメリカが保護貿易の推進を表明している今、日本にとっての最大の「危機」となることは自明ではないか。だが、日本の政治は相も変わらず、食べられない「工業製品」の競争力強化しか頭にない!「食料安全保障」への危機感の無さは目に余るが、そうした「非合理」や「不条理」の蔓延が、国民に「将来不安」「人心の荒廃」をもたらしていると考えるのは私だけか?

(つづく)


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