Water Diary

水を通して見える世界の話を、日記に綴ります

尊王を掲げ、朝敵を伐つ


現代に於いて、人はありのままの世界を生きているわけではない。人は、情報化社会が生み出した架空の現実と、その仮想現実から個々人が導き出した「思い込み」の世界を生きているにすぎない。

だから、私たちはとても矛盾に満ちた世界をバラバラに生きている。その世界は、個々人の経験によって規定されてしまうところが大だ。たとえば、若い頃に「死」に瀕するような経験をした人は、「生と死の幅」を感覚的に掴む。その「幅」を広く感じる人もいれば、狭く感じる人もいる。生を能動的に捉え、より「積極的・冒険的に構える」か?生を受動的に捉え、より「慎重・用心深く構える」か?は人によって千差万別が生じる。そして、その千差万別がそれぞれの「思い込みの世界」を構成していく大きな要素となる。

それぞれの「思い込みの世界」は基本的に不可侵であるべきだと思う。なぜなら、現代社会には、絶対的な価値観と言えるものが存在しない(ように見える)からだ。だが、同時にたとえば「用心深く構えている」人に、「そんなに肩に力を入れて生きるよりも、もっと楽に生きる生き方」があることを知らせたくなる。
身近にそういう人間が居ると、「ちょっかい」を出したい気持ちは、事あるごとに生じる。だが、結局その人が自分の経験を通して、「肩肘に力を入れすぎて逆に心配事を引き込むだけではなく、痛い目に遭う」こと抜きに、その人の構え方が変わることはない。そうした原体験抜きに、こちらが投げかける「言葉」は意味を為さないし、「論理」や「理屈」は相手を頑なにさせることしかできない。しかし、身近な人なら、その人が「痛い目に遭った」時に、間髪を入れずにサジェストすることも、アフターケアすることもできる。

問題は、社会全体を覆ってしまっている風潮だ。「管理社会」に於いては、「経験」の疑似体験がマスメディア、特に「テレビ」を通して流される。「管理社会」は、冒険好きの異端者は好まない。慎重で、用心深く、少しは臆病な人の方が、群れとして「御しやすい」。だから、社会を管理する側は、「御しやすい」人々の育成に励む。

そうしたコントロールが、日本の場合半世紀以上に渡り行われてきた。そして、その結果、個々人の持つ「活力」が「摘み取られ」、ここに来て社会を停滞させるに至っている。国民の「去勢」を進めたお陰で、逆に管理する側の「頭の悪さ」や「融通の利かなさ」「現実に対する対応力の低さ」が「もろ」に出てきてしまっている。特に、「経済」の失政は「目を覆うばかりだ」。自らが「成長戦略」と呼ぶものに、一つの具体性も実現性も賦与できないのだから、話にならない!

江戸時代、日本は豊かだった。それは日本が「ジパング」と呼ばれたからだけではなく、江戸時代に育まれた文化をみれば分かる。農業・林業・漁業といった自然を活かし一体化した第一次産業が、大いに発展を遂げ、今で言う「内需の拡大・充実」が図られた。その「豊かさ」の蓄積が、明治以降日本の技術力として生かされ、「外需の拡大」局面を得たのは歴史が示す通りだ。だが、長州を核とする新政府の海外膨張策が、日本を戦争に導いたことも歴史は示している。そして、性懲りもなく同じ「路線」にしがみつく勢力が、今でも日本を牛耳っている。

自然との共存を謳えば、誰もが「もったいない」を口にする。言葉は違うかもしれないが、世界中に住む「原住民」の人々は、「必要以上は獲らない」。「MOTTAINAI」という言葉は、再生可能性に依拠する人々にとっては世界共通語だ。

一方で、「グローバル経済」は世界の資源を掘り起こし、それを使う権利は自分たちにあると主張する先進国が推し進める経済だ。その中に、日本も自分たちの居場所を求めるなら、日本は再び戦争を巻き起こす側に回るだろう。明治新政府から連綿と続く一握りの者たちの野望は、日本を戦争に駆り立てる。その野望を安倍氏が引き継いでいる。そして、彼の「思い込み」の世界を止める勢力は、今のところない。

だが、ここで思い起こしてほしいことがある。明治維新は「尊王攘夷」を掲げた者たちが勝利した「はず」だというという点だ。「王を尊び、外敵を追い払い国内に入れない」ことを掲げた新政府が、「欧米列強」に肩を並べると称して「富国強兵」に励み、その延長線上で軍(=政府)の主導で世界を相手に戦争を仕掛けた。この行為は、「王(天皇)を蔑ろにして、国防にこじつけ海外への権益獲得に打って出た」亡国行為そのものだったのではないのか?

この「論理のすり替え(=詐欺行為)」に、誰も言及しない。戦後70年が経ち、安保法制やTTPが矢継ぎ早に決められて行く中でも、そして、「天皇陛下の異例のお言葉」も、安保法制に対する「憲法違反」の声までもが公然と「掻き消され」ようとしている。

安倍氏のように「グローバル経済を崇拝する」者達によって、日本の「謙虚さ」や「もったいないと思う気持ち」や「おおらかさ」や「太平」は踏みにじられて来た。そろそろ、私たちは「尊王倒覇」を掲げ、海外に利権を求める輩を権力から引き摺り下ろす行動に出るべきではないのか?私たちには、海外を含めた「平均化」などを求める必要性はない。もっともっと「独自性」に根差し、「謙虚さ」や「おおらかさ」を、日本人のアイデンティティとして世界に示して行くべきだ。

価値観の違う者同士は、その「価値観の違いを争ってはいけない」。価値観の違いは、お互いが尊重し合うものではなくてはいけない。ラグビーのワールドカップを通して、私たちはスポーツに於ける「ジャパンウェー」というものの存在を知る機会を得た。それは、ラグビーという生身の体を張って行う団体競技が、相手をリスペクトすることを基本理念としているからこそ、見る者すべてに感動を与える。それぞれの国が、自分たちの持ち味を知り、それを鍛え、ボールをつなぐ。その戦いは、常に選手個々やチームとしての力量を高める方向性へと向かう。だから、見る者は、選手たちの「All for one. One for all. 」の怖れを知らぬ献身が醸し出す「新鮮さ」「爽やかさ」に心躍らせ、酔いしれた。

今の日本の「停滞」が示すものは、私たちが有する持ち味が「まったく生かされていない」という現実だ。私たち一人一人が生き方における「ジャパンウェー」を探求し、それを生身の体を張って掲げる。私は、その大義として「尊王倒覇」を掲げたい。日本の象徴としての天皇を尊び、天皇を隠れ蓑として執拗に海外膨張策を取り続けてきた朝敵を伐つ!明治新政府から続いて来た新勢力による局面の打開は、もう「既に」その役割を終えている。これ以上、彼らの好き勝手にさせては、国益を害するだけでなく、「尊王」は地に堕ちる。

時を同じくして、

「沖縄」が反旗を掲げた。北朝鮮・中国の脅威を事由に沖縄だけに基地負担を押し付け続ける現政権は倒幕に値する。もしも、自らの海外膨張策を是が非でも遂行させたいなら、そして、その際の保険をアメリカに求めたいなら、自分たちが拠り所とする県に基地を移せば良いではないか?

子供じみた「利己」をこれ以上振り回すなら、正面切って朝敵に「物を申す」決意を固めた「沖縄の声」は、多くの日本人の心を呼び覚ますことになるだろう。

(完)


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