Water Diary

水を通して見える世界の話を、日記に綴ります

民主主義経済


私たちの生きている社会は資本主義社会で、その社会では当然ながら資本主義経済が通用している。

この資本主義社会は、民主主義社会と同義であるという「化けの皮」を被っている。否!この言い方は正確ではない。資本主義社会では「教育を通じて」、資本主義と民主主義は「同一のもの」という「教え」が為されてきた。そして、人々はその「教え」を完全に「真に受け」、疑うことを知らないまでに至っている。
だが、名は体を表す。資本主義社会の主人公は、言うまでもなく資本家であり、「お金持ち」だ。そして、資本主義経済下では、政府が、「資本家が上手に儲ける」ことができる「仕組み」作りを、推し進めてきた。それは、本来、国民を主人公とする民主主義と相容れるものではない!民主主義経済という「概念」を定義して資本主義経済と対置させれば、その「不可逆的」な関係性は一目瞭然となる。

資本主義社会で言う資本家とは、「一握りの人々」だ。資本主義社会では、その「一握りの人々」が営む「大企業の利益」が最優先される。だから、国は税金を使い手厚い優遇策を大企業に注ぎ込んできた。とは言え、税金を注ぐだけで「大企業」が十二分に「その地位」を維持できる訳ではない。企業が大きくなるためには、人的な確保、技術的な蓄積等々が不可欠だからだ。そのために、大企業を頂点とし、それを支える中企業・小企業によるピラミッドが形成されるに至った。

その過程の中で、私の言う「民主主義経済」というものが一時的ではあるが「実在した」。そこには、「日本の敗戦」とその結果として受け入れた「民主主義」という概念が大きく関わっていた。
焦土と化した国にも、「国破れて山河」が残されていた。そして、「剥き出しの資本主義」を押し立てて、無謀な戦争を遂行した政府要人たちは「戦争犯罪人」として裁かれた。国粋主義から解き放たれた国民は、「生き抜く」という命題を前に、「無手勝流」であらゆる「生産活動」に、全員参加で臨んだ。「草の根の生産」は、必然的に「草の根の販売者」を生み出し、旺盛な需要に対し、必死に供給を間に合わせていくために、生産者及び販売者の層を分厚いものとして行った。当然のことだが、この時代「純粋な消費者」などは皆無に等しかった。大半の国民は、生きていくための最低限の消費はしたが、同時に生産者であり、販売者として供給側を支えた。だから、この「経済」は、一つの「ロスもなく」合理的に回った。そして、これが「内需の拡大」という状況を生んだのは言うまでもない。

日本の驚異的な「戦後の復興」の素地は、この「民主主義経済」の勃興に拠って形成されたと、私は述べたい。だが、翻って現在の政府による経済運営を見る限りにおいて、そこに「民主主義経済」の痕跡を見出すことはできない。私たちは、紛れもなく、資本主義社会に暮らし、資本主義経済下で必然的に生じる「貧富の差」を否応もなく受け入れさせられている。そして、その傾向は今後共深まっていくことはあっても、軽減されていく方向性は見いだせない。その事実を、もっと早い内に、もっと多くの人が認識しなければならないという点を、私は指摘したい。

それはなぜか?大企業の寡占の裏で、多くの生産者が廃業をしている。生産の要である農業から、多くの人が離脱するのを、この国の政府や政治は「見て見ぬふりをしている」。それで、「経済が円滑に回る」道理はないではないか?「冨」とは「無から有を生み出す」「生産」という行為抜きには「生じない」。今日本で行われている経済活動は、日本が営々と築いてきた「遺産」を食いつぶすことで成り立っている。それが証拠に、100年を超える「老舗」が人知れず、店じまいをしている。「時代にそぐわなくなった」「時代遅れの経営」が倒産の理由とされる。だが、本当のところは「そうじゃない」。無数にいた生産者が後継者を失い、今の担い手である老人たちの引退を最後に廃業をして行く。その引波の速さ、変化の速さに圧倒されて「目には見えない連鎖倒産」が、そこかしこで続いているというのが実態だ。

そんな中で、「大企業だけ生き残らせて、この国に未来がある」とお思いか?生産者も販売者も減らし、消費者だけが増える。そうした潮流を打ち消す、具体的な策を明確にしなければ、この国は滅びる。と同時に、資本主義を標榜する先進国もまた、同様の道を辿ることは免れない。
この危機を乗り越えるために、私は「民主主義経済」という概念を確立して行くことを、世界中の人々に呼びかけたい。ほんの「一握りの人」に翻弄されることを良しとしない世界中の人々が、「民主主義」という曖昧な概念に代わり、「民主主義経済」という概念に具体性を持たせていく。そこに「世界中の頭」を集中させて行く。「民主主義」と「多数決」は、決して同義ではない。が、「多数決」があたかも「民主主義」の代名詞とされているところに、「資本主義と民主主義が同義」とされていることにも通じるトリックが「ある」。「民主主義」とは「全員参加」を前提としている。そして、それが「民主主義」の原点だ。だが、その民主主義を政治に活かそうと考えた時点で、「直接民主主義」と「間接民主主義」という言葉が生まれた。が、実際は「直接民主主義」は確かに民主主義そのものだが、「間接民主主義」は「民主主義とは似て非なる」ものだ。にもかかわらず、この「間接民主主義」を政治の世界で「民主主義」として、認知させてしまったことで、たとえばアメリカでは多くのロビイストを産み、日本では政治献金の名のものとで、資本家や金持ちが「間接的(実は直接的)」に政治を自分たちの「都合の良い」ものとしてきた。

それを「経済」という面から、捉え直してみよう。政治の世界で「直接民主主義」を退けた理由は、「全員参加」を政治に組み込むことは「不可能だ」という「詭弁」だ。この「詭弁」は、政治が「教育」を通して浸透させてきた。だが、「経済」と言う面では、「全員参加」を盛り込むことは不可能ではないことは、前述した日本の戦後の経済を見れば分かる。と言うよりも、この全員参加型の「民主主義(的)経済(活動)」の方が、「需要と供給の一致」という点で、普遍性がある。私は、資本主義経済よりも、遥かに実用性も実効性も継続性も高いと思う。だが、それはいつの間にか「資本主義経済」に取って代わられていた。政治の世界が、剥き出しの資本主義を標榜する者たちによって、改めて支配されることとなり、「民主主義経済」が政府により駆逐されたからに他ならない。

だが、そのことによって矛盾が生じ、弊害が露わになり始めた。「貧富の差」が歴然としてきただけでなく、貧者に消費をするための原資が渡らなくなってきてしまった。国が税金を大企業優遇策に充てるだけではなく、貧者にも社会保障のために税金をつぎ込まなければならない事態が、「必然的」に生まれてしまった。無数の草の根の生産者を廃業に追い込み、その生産量を大企業へ集約させることで、利益も大企業に集中させる。その結果、経済は歪なものと成り果てた。消費するためには「お金」が不可欠だが、「草の根経済」からはじき出された人々は、収入も絶たれた。つまりは、消費をしたくとも、それができない。

「民主主義経済」の内包する「需要と供給の一致」で「合理的な成長」を遂げた経済が、剥き出しの「資本主義」によって食いつぶされてきたと言って良い。そして、原理化した「資本主義」は、今アマゾンに見られるように、「超巨大企業が他の大企業の利益までもかき集めてしまう」という圧倒的な流れを生じ始めている。そして、そうした超巨大企業は、「システムの自動化」「ロボットやAIの導入等」を通じて、「あらゆる経済活動から人を締め出す」方向へと突き進み始めている。これが、アメリカの主導する「グローバル経済」の「行き着く先」だ!私たちが、もう何十年も前から目にしてきた、ハリウッド映画が映し出す「暗い近未来」。それが「現実」として、もう目の前まで迫って来ている。

この流れは、指を加えて見ていては「止まらない」。これを「止める」ことができるとすれば、「民主主義経済」を広範な人々の支持する「概念」として確立し、実践していくことをおいて他にない!

剥き出しの資本主義が、より原理化して行く中で、人々の「拝金主義」は膨張を重ねている。それが、「貧富の差の拡大」をとめどないものとしている。大半の人々が、消費するに十分な「原資を得る術」をもぎ取られるに至っている。これが、「拡大はするが、成長(=インフレ)を伴わない経済」の正体だ。これは、世界中の先進国(先進資本主義国)で、共通に起こっている事象だ。そのため、各国政府は選挙時の「経済動向」一つで、いきなり「不信任」を突きつけられたり、不人気を盛り返したりする。だから、当選を果たしても、偽りの経済運営(=税金を投入して、粉飾を繰り返す)から「足を洗う」ことができない。また、「ポピュリズム(=大衆迎合主義)」を掲げる政党や大統領が突然のように表舞台に躍り出る。トランプ大統領の登場などは、その「象徴的」な事例だ。

繰り返しになるが、この流れを「止める」ことができるのは、「民主主義」を隠れ蓑に利用している「資本主義」から、「民主的(=全員参加型)経済」を取り戻し、「民主主義経済」を確立する他はない。

それは、はたして難しいことなのだろうか?私は、本当は「とても簡単」なことだと思う。世界は「思い込み」でできているに過ぎないからだ。私たちの信じる「民主主義」は、「民主主義経済」抜きには達成されない。そして、「民主主義経済」は、「直接民主主義」に担保されないかぎりは実現できない。まして、「資本主義」と「民主主義」を同一視するような「頭」からは、何も生まれないの自明だ。だが、その「自明」なことに、私たちは「気付くことなく生きてきた」。

最後にもう一度同じことを言う。「民主主義経済」というものを、各々の、そして数多の人々にイメージしていただきたい。そして、それが如何に「合理性」や「実現性」に富んだものか?に思いを馳せていただきたい。そうした考えが、世界中の人の頭に宿れば、世界は「瞬時」にして変わり得る。だから、もし、この一文に触発されるものがあったなら、あなたの回りの人々にも伝えてほしい。そうして、「民主主義経済」の概念が地球規模で広がりと厚みを獲得して行ければ、「世界は、平和裏に、そして、すっかり変わることができる」はずだ!

(完)


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