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自由に生きる


自分の人生は、本来誰にとっても「固有」のものだ。人は持って生まれたものや環境に千差万別があり、その違いをもとに学習をし、自らを形成していく。3歳の頃に両親が離婚した私にとって、「自由に生きる」という思いは「特に肩肘張って貫いてきた」ものではない。ごく自然に身についた生き方で、以来70歳になった今でも他の人や社会的な思惑を気にかけることなく「思うがまま」に生きている。

子供にとって親は、良くも悪くも「自由を束縛する」存在だ。親が子供に伝えたいと思うものの第一は、自分が得てきた「人生訓」だからだ。この世を「思うままに生きている」人の数は極めて少ない。それは、社会的な動物である人間の世界では「群れ」が生き抜くために様々な掟や不文律が存在し、それを社会が「教育」と称して人々に叩き込んで来たからだ。そして、ほとんどの親たちもまた、そうした社会から「我が子が落ちこぼれないように」という一心で、自らが得た「人生訓」を営々と子供たちに説いて聞かせる。だが、私は幸いにそうした「訓示」を社会からも親からも受けることなく大人となった。

この「人生訓」は、端的に言えば「功利心」によって裏打ちされた処世術に過ぎない。だが、この「処世術」が今の世の中の様に「常識」という衣を纏うと、私たちの多くを「自縛して離さないもの」となる。それは支配する側が、長い長い時間を掛けその仕掛を「巧妙且つ政治的に利用して来た」からに他ならない。

人類は誕生以来、艱難辛苦の末に「種」の数を増やしてきた。特に身体的に並外れた能力を授かっていたわけではない人類が生き残って来られたのは、直立歩行によって獲得した「頭脳」の為せる技だ。人類は「言葉と道具」を生み出し、それを不断に発展させて来た。狩猟から農耕へ。この転換こそは、人類に飛躍をもたらしたが、そこから生じ始めた「余剰」とその分配方法が長い歳月を掛け人々の「従属心」を揺るぎないものとさせてきた。

動物は「餌の量以上に種の数を増やすことはできない」。これは人類以外の動物には例外なく当てはまる「自然の摂理」だ。だが、農耕を始めた人類は、その「自然の摂理」から自らを「解き放ち」、独立独歩の道を歩みを始める。しかし、それは自然(=神)を崇める存在であった人間が、自ら「神を名乗り始める」契機ともなった。地球上の随所に、神を名乗る王が登場し、民を農耕に従事させ、そこから得られる「余剰」を「独り占め」し始めたのだ。以来3000年、こうした自称「生き神」たちが、地球(領土)の私物化を堅持強化しつつ民を支配し続けて来た。

(つづく)

こころざしを持つ


過密な都会を目指す者は跡を絶たず、コロナ禍でもUターンはなかなか進まない。だが、改めて言うが、動物は「餌の量以上に生存数を増やすことはできない」。にも係わらず、経済のためと称して「人口増」は、政策的に強引に推し進められて来た。この「辻褄」は放っておいて解消するはずはない。世界中の国々が財政の赤字を放ったらかしにして、経済の拡大だけは維持しようとしている。この茶番劇が最終的にどこに行き着くか?を、私たちはもう「薄々気づいている」。だが、誰も身を挺してまでも「これを止めよう」とはしない。

だから、この流れは止まらないのだろう。自然淘汰の嵐が吹き荒れる。「ポツンと一軒家」を守る年老いた人々や全くの偶然で生き延びた人たちが、辛うじて生き残り新たな社会を形成して行くこととなる。

それが神(=自然)の御意思だ。
人は「自らの生をどう全うするか」を考えることができる、地球上で唯一の生物だ。だから、人類の生き残りは、どうであれ、自分たちが決めていくことになる。
だからこそ、私は自分たちが生き残って行く術を、自分の子や孫に、そして自分に関わりを持った人々に伝えて行きたいと、思いを新たにしている。

自然に即し、地球環境が私たちに与えてくる恵みを、再生可能資源として頂戴する。その大本は、治水だ。「水の惑星=地球」では、その水を治め、農業生産に活かせるようにする。それが何にも増して重要なことだ。大河は、放っておけば必ず氾濫を起こし、それを繰り返す。だから、日本ではこの「治水」に「大きな知恵や力」を継続的に掛け続けてきた。その知恵の集積があって初めて、日本は鎖国をして海外との交易を遮断しても、豊かに暮らすことができていた。

が、今はどうだ!地球温暖化が直接の要因とは言え、毎年のように、各所で河川の氾濫が巻き起こされている。今や年中行事と化した河川の氾濫に対し、抜本的な対策は取られていない。昔、河川は農業のためだけでなく、輸送手段や交通手段としても活用されていた。山国である日本では、古来より家屋は木材で作られ、その木材を山から切り出し、多くの人が生活を営む平地まで運ぶ手段として、河川が使われた。そのために、河川には常に手が加えられ、急流はなだらかに、氾濫を誘発する蛇行もまた改修されて来た。伐採された山には植林をし、間伐も行われ、山自体のリサイクルも怠りなく進められた。また、木材に限らず、収穫された米を始めとする農産物等も河川で運ばれたことで、治水事業は連綿と続けられて来た。

(つづく)


「こころざし」(志)を持つ


日本人は、「人柱」という言葉が好きだ。「世のため人のため」に自らの「命」を投げ出す。愛する家族や「心を寄せる」人のために、自ら進んで「人柱」になる決断を下す。それを「誉れ高き尊い」とする「生き方」だ。私達はそうした「生き方」を「武士道」とか「大和魂」と呼んで来たが、それは四方を海に囲まれた島国で長きに渡り「純粋培養」されて来た。日本固有の、日本人にしか通用しない「生き方」でもある。だが、経済偏重の世の中があまりに永く続き、人々は「こころざし」や「他己」という言葉をどこかに置き去りにして久しい。悲しいかな、わたしたちは過密な人の波の中で、自分自身を見失い、同時に拠って立つべき場所を喪失してしまっている。

かくなる上は、一度極端に「人口が減る」局面を迎えなければ、わたしたちは「真っ当」さを取り戻すことはできない。だが、そんな恐ろしい場面に、否応もなく遭遇するくらいなら、是非「ポツンと一軒家」を思い出してほしい。今の日本には、いくらでもそうした場所がある。まだまだ開墾せずとも、少し掘り起こすだけで作物が作れる場が無数に散在している。

(つづく)

「こころざし」(志)を持つ


コロナなのか?地球温暖化による自然災害の猛威なのか?適切な判断ができない国々同士による戦争なのか?1960年に30億に達した世界人口は最早70億と倍以上に増えている。優柔不断で政府には盲目的に従う人々が共存共栄できる道などありようがない!

経済のためと称して、消費社会を成り立たせるためにひたすら膨張させてきた「人口バブル」が弾ける。それは、社会が最早増え過ぎた人口を賄い切れなくなったことで生じる必然だ。増えた人口を養うための「コスト」や「資源」がもう底をついている。それを「株高」という蜃気楼だけで「ごまかす」ことは、もうできない。
増えた人口の多くは、貧困層だ。貧富の差は衝撃的な程広がり、富は僅かばかりの者が握っている。圧倒的な数の貧困層から税を徴収して再配分しても、それで貧困層を救うことなどできない。それほど、マネーは偏在化してしまっている。単純な話、無用なほどにマネーを掻き集めてしまっている一握りの富裕層から、税を徴収し再配分を敢行できるような政府が現れなければ、この帳尻は合わない!

だから、本当は一握りの富裕層が、お金の使い方を承知して有効に使うだけの「理知」を働かせれば良いだけの話だ。と、私なら思う。が、物事そううまくは行かない。聖人君子などいない。お金の「本当の使い様」を心得ている人など皆無に等しい。大金を手にしても、使えずに貧しく過ごす人やつまらないことに使いスッテンテンになる人はいくらでもいるが..。そうして、最後には革命が起こり王様のように振る舞う不埒者は処刑されるというのが、オチだ。

(つづく)

「こころざし」(志)を持つ


「革新力」とは何か?と言えば、閉塞感を打破するだけの「発想力」のことを指す。
人々の中に醸成される「こころざし(志)」の有無や強弱が、その「革新力」の源泉となるのだが、それがなかなか顕在化して来ない。

「ポツンと一軒家」というテレビ番組がある。代々に渡り開墾し広げて来た農地や、手を加えながら守り通してきた山林や、それらに依拠した営みを引き継ごうととする無名の人々にスポットライトを当てる番組だ。そこに映し出される人には、明快な「こころざし」がある。「一人でも」「自分が生きている限り」は、「ここを守り抜く」という意志だ。だから、登場する人が皆「堂々としている」。「迷いもなく」「晴れやかな顔をして」「自分の為すべきこと」を「淡々とこなす」。「気負い」はない。皆年配だが、「時間と競うような素振りはなく」「立ち居振る舞いが軽やか」だ。

(つづく)

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窓男

Author:窓男
水は、あらゆる生命の細胞をくぐり抜けることで生き物たちを束ねながら、地球と成層圏を舞台に、輪廻転生をくり返しています。
私たちは、その再生を果たしたばかりの「天然水」をお届けする、「天然水道」網の構築を目指しています。

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