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Water Diary

水を通して見える世界の話を、日記に綴ります

コロナと風水害と地球温暖化


関東地方にも、朝から大粒の雨が降る。
テレビでは、岐阜県に続き長野県にも大雨特別警報が発せられたと報じている。

「九州には住みたくない」と思わせていた同じ光景が、岐阜県下呂市や高山市や長野県上松町の河川の光景として映し出されている。私たちは、今後いつまで、こうした同じ光景を見続けて行くのだろうか?一生懸命働いて築いたマイホームやお店や旅館やホテルが、泥水に押し流され、あるいは泥まみれに蹂躙される。

「想定を上回る災害」が毎年起きる。これは、はっきり言って「想定が甘い!」と言うほか無いのはでないか!
また、「分かり切ったことに、何らの対処もしないから繰り返される」。つまり、これは「必然」ということではないのか!

地産・治水は、政(=まつりごと)の要(=かなめ)だ。そうした役割には目もくれず私利私欲に走る無能な政権に、私たちは長い長い間好き勝手を許してきた。そこに、自分たちも「おこぼれに浴したい」という「浅はかな思い」が作用してしまっているとは思わぬか?

もう私たちに残されている時間は、長くはない!
悔い改めるか?滅亡するか?選択の時は、すぐそこまで、迫って来ている。


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コロナウイルスの発生源

第2話

緊急事態宣言が5月の連休の5月6日までとされていたが、明瞭な指針のないまま5月31日まで延期された。号令を掛ける立場の政治の長である首相が、専門家に責任を含めて丸投げしたまま何も決めようとしない。意思決定の筋道にいつでも胡散臭さを残すのが常の政権のため、エビデンスや根拠等は公開しようとしない。(実は無いからだ。)号令を掛ける側に、覚悟も具体性も明快さもないので、PCR検査等については、いつまで経っても「首相の言う通り」にはならない。それは、そうだ。思いついたままを、まるで「他人事のように行政に丸投げするが、丸投げされた側は緊急事態に対応する予算も人的な態勢を整えるだけの予算ももらっていない」。つまり、「無茶振り」もいいところだから、何も手を付けられない。首相は、まるで「口から出まかせ」の様に「何時いつまでにはこうできる」という話を連発するが、予算抜きに、裸の王様に従える者など居る訳はない。

リーダーシップという点では、「劣っている」というよりも「全く発揮するつもりがない」。どこか?豊臣秀吉を彷彿とさせるワンマンぶりだが、本人「安倍一強」と呼ばれ、「天下人」にでもなったつもりでいる。税金を無駄なことに湯水の如く注ぎ込むが、弱者への配慮は微塵もない。全体が見えていないから、本当に必要なところに先を見据えて税金を投入するといった先見性もない!これでは「(官邸)独裁政治」そのものだ。秀吉が子飼いのお気に入りを、恩賞と地位と恫喝を巧みに組み合わせながら操る様を思い起こさせる。とは言え、ここ何年も同じ調子でやってきて「お咎め無し」でやり過ごして来たので、本人は「今回も乗り切れる」つもりで居る。国民の側の対応も然りで、このまま行けば、今回の「コロナ騒動」は何事もなかったかの様な結末を迎える。

ただ、人々の心の流れは「そう」だとしても、困ったことに問題は何一つとして解決を見ないまま次章に突入して行く。「経済しか頭にない」まま、「早く経済を回復させたい」と政治家も国民も先を急ぐ。だから、敢えて言う。今回の世界的なコロナ騒動は、私達が最優先させている経済活動と無縁ではない!武漢からイタリアへと新型コロナの感染者の中心が移った少し後まで、日経電子版上では、武漢を中心とした中国全土と、イタリアを中心としたヨーロッパの全域の衛星写真を掲載していた。どちらも都市封鎖を敢行した日を中心に、その前後を高速度でつなぎ合わせ、上空に立ち込めているスモッグの推移を撮し出していた。それを見ると、一目瞭然だったが、都市が封鎖され経済活動がストップする前とその後では、武漢も北イタリア上空も全く様変わりしていた。経済活動がストップするまでは異様な程分厚い雲(スモッグ)に覆われていたものが、ストップ後はスモッグはきれいに一掃されていた。中国全土やヨーロッパ全域の中でも、それははっきりと認識できるほどの差異が映し出されていた。

私がウイルスの発生源は「PM2.5」ではないかという仮説を立てたのは、その映像を見てのことだった。私が子供の頃、京浜工業地帯で同年齢の子供たちが喘息に悩まされているというニュースがよく流れていた。そして、私の一つ年下の従兄弟が喘息を病んだことをきっかけに、一家は川崎から仙台に引っ越した。その後、私の従兄弟の症状は和らぎ回復をしたが、人間に限らず生物は環境に左右される。勿論生物には環境への適合能力が備わっている。それが進化の引き金になるとされてはいるが、対応し切れない者もいる。

だからこそ、今のような経済を推進する「政治(家)」には、そうした事態に対しての十分な備えをする責務がある。だが、当の政治家にそんな意識はカケラすらないことが、世界のリーダー達を見るとよく分かる。経済の再開を急いだアメリカでは、半数近い州で感染者が再び増え始めていると言う。(5/24 日経電子版)また、「コロナ感染者 世界で520万人 中南米など新興国深刻に」という記事掲載されてる。(5/25 日経電子版)中でも酷いのがブラジルだが、「コロナの感染よりも、経済の打撃を最小にすることの方が重要」としていた大統領を擁する国が、「爆発的な感染の拡大に直面している」。

そう!この騒動は、まだ終ってなどいない。それにもかかわらず、「グローバル経済を再開させる」と言う。だが、そんなことをすれば「人とモノを大量に、高速に動かすグローバル経済」下では、新興国や発展途上国を中心にパンデミックに抗する体制は全くと言って良い程整っていない。だから、自分ファーストの考え方しかできないトランプが、大統領選を睨んで経済再開を急げば、パンデミックは新たにシャッフルされ、第一波のまま地球全体を覆い尽くすこととなる。

私達は、たとえ経済が「ひしゃげたとしても」一度立ち止まらなければならない。物事には必ず「因果関係」が存在するからだ。(因果関係とは、「原因があり結果が生じる」というとてもシンプルだが、同時に極めて科学的なものの見方を指す。)生命は環境に左右されながらも、生き残りを賭けて適応力を磨き、身体の一部を変化させる能力すら付与されている。ただ、それは人間だけでなく、全ての生命に付与されている能力だから、その力は原始的な生命ほど強い。人間の欲望により、地下に埋蔵されている資源は急ピッチで掘り起こされている。それらの資源は巨万の富を生むからだ。開発は自然破壊そのものだが、あまりにも広範囲で行われ、今ではグローバル経済そのものだから、その実態は人々の目には止まらない。だが、掘り起こされるのは資源だけではなく、乱開発抜きには出会うこともなかった「強い生命力を持った細菌」をも目覚めさせる。ウイルスは菌とは違うが、やはり人間の経済活動とは無縁な存在ではない。それらと出会うチャンスも、人間がその数(=人口)を異様なまでに増やし続けてきたからこそ、増えている。だから、私達が一度立ち止まって考えなければならないこととは、このまま「今の経済を拡大し続けることの是非についてだ!」

今回のコロナ騒動は、「医療が科学から外れ、適切な対応ができない代物になり果てている」からこそ起きた。それは、世界の政治が挙って、「本来あるべき医療に対して適切な予算を組むことがない」ままで来たからこそ生じた。つまるところ、政治が全く「科学的観点とは無縁」なところで成り立ち、社会主義・共産主義の没落の果て民主主義もまた機能しないところを曝け出すに至っている。私達が積み上げて来た「科学的な見地」を支える「人間性」や「理念」が、いつの間にか「打ち捨てられている」さまに、ほとんどの人々は気づいていない。

政(まつりごと)とは、本来「支配と被支配」を前提とするものだ。そこに「科学的見地」など存在しない。力のある者が、その他大勢を従える。そこに「正当性」を与える「科学的見地」など存在するはずがないのだ!だから、現代を支配する側は「民主主義」というもっともらしいものを持ち出し「お茶を濁し」、その他大勢(=私たち)を騙しにかかっている。と言え、最初から「民主主義」という考え方が不甲斐ないものだったわけではない。その考え方は、民衆が革命や民主化運動を通して「多くの犠牲」の末に培って来たものだ。だから、民衆に選ばれた政治家には明快な「志」があった。が、「志」は世の中の変容や自らの地位により、たちまちの内に「劣化」してしまう。旧来の勢力の復活や独裁者の台頭などに取り込まれ、「支配と被支配」の関係はより「強固さ」を取り戻してしまうというのが常だ。

一方、今の所私の独自理論に過ぎないが、経済に「科学的見地」を持ち込むことはできる。つまりは、「民主主義経済」というものを理論化することは十分にできる。なぜなら、経済は政治と違い数字に忠実だからだ。
「経済」は「人々が必要とするものを作り、売り買いする」ことで健全な成長を遂げる。が、その本質が逆転し、「人々が必要としているか否かよりも、売れるものを大量に製造し売り捌く」ことが、最も経済を効率よく拡大させることができる。その効率に、現代資本主義は気づき、その原理をグローバル経済に当てはめ徹底的に追求し始めた。そこに、資本主義国家ではない中国までが参戦し、グローバル経済を一気に拡大させたことは、皆も良く承知のことだ。だから、繰り返して言うが、こうした現況を良く見定めて事に当たらねば、日本経済はグローバル経済の負の側面に絡め取られ埋没して行く。

日本は江戸時代に、世界一の都市を成り立たせたことがある。当時、海外進出を果たし世界中から富を集めていたヨーロッパ列強のロンドン(60万人)やパリ(50万人)に比し、100万人という圧倒的な人口を擁する江戸という大都会を生み出した。全くの「内需」だけでも、「人々が必要とするものを作り、売り買いする」ことに徹し、多くの人々が製造に関わる経済を構築すれば、経済は自立し健全な発達ができる。そうした実証をした国は、実は日本しかない!それは、島国であり、鎖国という体制を敷いた国にしかできない壮大な実験だったが、それを私達は達成した稀有な存在なのだ。そして、日本が起こした無謀な太平洋戦争後にも、内需の拡大を梃子に同じ様な経済の隆盛を成し遂げたこともある。(朝鮮戦争需要がきっかけを作ったという側面も否めないが...。)

日本の人口は減少傾向に入ったとは言え、まだ1億2千6百8十6万人も居る。それだけの人々が製造と消費をすれば、経済が成り立たないはずがないではないか?何も競争力のなくなった市場で、世界中に散らばったサプライチェーンからの供給を心配しながら、不自由な製造を組む必要などない!できるだけの製造を国産に戻し、内需中心で回す。そうすれば、人手不足なども起きない。こちらが買ってもらおうとせずとも、品質や価格面でまだまだメイドインジャパンのバリューを求める人は世界中に居る。結果的な売り手市場を堅持することこそ、ビジネスにとっては重要な戦略ではないのか?昔の様に「鎖国をせよ」と言うのではない。だが、江戸に100万都市を創り上げた経験を活かし、「恵まれた天然水」を活かした製造業(農業等の第一次産業)及び、器用さを活かした製造業(工業等第二次産業)を復活させ、それらを島国の利点を活かした海運という物流網も織り交ぜながら再興させる。

それが、これからの日本が世界平和と共に自らの繁栄を謳歌できる道だ。グローバル経済とは、唐突に聞こえるだろうが、実は「帝国主義経済」に他ならない。欧米列強による欧米列強のための経済だ。だから、この経済は欧米列強にしか利益をもたらさない、不平等極まりない経済だ。その本質は、日本が太平洋戦争を起こした時と寸分も変わらない。欧米列強以外の国日本が、彼らの世界支配に盾を突いた。勝手に中国に進出し、自分たちの経済圏を力づくで打ち立てようとした。「出る釘は打たれる」。日本も、帝国内で反乱を起こしたドイツもイタリアも鉄槌を下された。
今の状況は、実は当時と似ている。日本の代わりに、中国が盾を突き始めている。が、当時と違うのは、中国が考えているのは「自分たちの経済圏を打ち立てる」だけにとどまらない。自らも世界を二分するような「帝国主義経済を打ち立てようとしている」。そのため、日米決戦の時とは違い米中決戦の勝敗は簡単につかないし、決着には相当な年月がかかるだろう。当時の日本は、陸軍が秀吉の妄想同様に大陸進出を掲げ、序盤戦で勝利した。その結果、帝国の逆鱗に触れ、石油の禁輸に合い、抜き差しならない太平洋戦争に突入して行った。その時は「負ける覚悟の上での参戦であった」ということが、まことしやかに後世には伝えられている。が、今回の米中戦争は、初戦の経済戦争ですら、その優劣が測れない。

話を元に戻すが、今回のコロナ騒動は「グローバル経済(=帝国主義経済)」を立ち止まらせ見直す良い機会になり得ると、「淡い期待を抱かせた」。が、世界は何事もなかったように、「経済再開」に雪崩を打ち始めている。とは言え、地球は人間だけのためにあるわけではない。生命の宝庫である地球は、もし人間が身勝手さから「自暴自棄」を曝け出すようなら、必ずやその人口を減らす挙に出る。それは何も新型コロナウイルスによるものとは限らない。地球温暖化による風水害の巨大化だって、ノンストップで続いている。だから、何の自省も見直しもない「帝国主義的経済の再開」など、自然(=神)にとっては「以ての外」のことだ。

だからこそ、日本が「民主主義経済」に通じる「再生可能経済を推進することで内需の拡大」に舵を切ってほしいと心より念ずる。それは、「グローバル経済に組することしかない」と盲信している国々に、「オルタナティブな選択がある」ことを示すこととなる。繰り返すが、それを示せるのは日本を置いて他にない。
人間は、製造に関わることで科学的な見地を獲得する。第一次産業に携われば、当然の如く「自然科学」に精通する。学校に通わずとも、「自然科学」がどういう理屈で動いているものかが体得できる。だから、都会育ちの私が僻地と呼ばれる地に移り住んだ時、接した「オバア達」は皆賢者に見えた。見えただけではなく、彼女たちは本物の賢者で、道理を心得え、働き者だった。別段第一次産業に従事することだけが尊いわけではない。製造に関わること自体が人間の頭を活性化させる。ものを作るという行為は、必ず「工夫」を必要とするからだ。その様々な「工夫」や「熟練」や「人様より秀でる」ことが、企業ではなく個々人単位で行われるようになれば、それが「民主主義経済」そのものとなる。日本はその「雛形」に当たるものを、江戸時代に生み出し発展させている。個々人が製造に関わることで、それぞれの製造者の力量や人間の幅を副産物と生み出す。だから、人が製造に関わることは、「人間の質を高める」ことに面白ほどに直結する。

残念ながら、今の世の中は大半の人が製造とは関わりを持っていない。それが、私は「人間の劣化」に直結してしまっていると考えている。江戸の町民は皆、なにがしかの生産や製造や商売に関わっていた。生計を立てるためだ。それぞれが、自分の生計を立てるために、自分の知恵を絞り、多くの個人事業主を生んだ。また、当時の物流を支えていた堀の改修等も、お上に願い出ることなしに、大店を中心とした自治組織が自ら行っていた。勿論御用商人と呼ばれる存在もあっただろうが、それでも、圧倒的な数の人間が参加しての「民主的な経済」があって初めて、人口100万人という大都市は成り立っていた。この力学を、世界中の人々に知らしめ「民主的な経済」というオルタナティブを世界に示したい。

ウイルスとの共生とは、「民主的な経済」抜きには達成できない。「グローバル(帝国主義的)経済」と呼ばれる、貧富の差を肯定的に捉える経済では「ウイルスとの戦い」は避けられないからだ。全面対決に至れば、自然を蔑ろにするものに、自然が味方に付くことはない!どの命も等しく尊い。それが理解できない生物には、まちがいなく天罰が下る。

(完)

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コロナウイルスの発生源


第1話

(コロナ)ウイルスは、細胞を持たず自己増殖ができない。そのため、わたしたち人間の科学では「生命」という範疇には入らない。では、そもそもウイルスとは何なのか?

(*私の仮説はあくまで仮説だ。が、なぜ?こんな仮説を億面もなく掲げたか?と言えば、医療関係者を含めた科学者が「ウイルスの定義」すらしないでいる現実に唖然としたからだ。だから、医療関係者や科学者を挑発し、まともに「ウイルスと面と向かってほしい」という思いを込めた。仮説とは、それが成り立たないと証明しない限り、仮説としてはあり続ける。だから、こんな非科学的なと一笑に付すのではなく、科学的な定義をする手段として私の仮説に反駁をしてほしい。そして、一日も早く「そもそもウイルスとは何なのか?」を白日の下晒して欲しい!)

ずばり私の仮説を述べる。ウイルスは生物ではない。では、ウイルスの発生源は何かと言えば、PM2.5と総称されるものだ。その中には人工物であるプラスチックが風化してマイクロチップ化したものも含まれる。ウイルスそれ自体は毒素を帯びたものではない。が、その「大きさ」と「数」と「成り立ち」が問題だ。細菌よりも小さく、大気中に多く含まれ、植物や動物の体内にも入り込み、地球上のありとあらゆる所に散在している。細胞よりも細菌よりも小さいために、機会さえ整えば、「生命」の細胞内に入り込み、増殖する。PM2.5の特徴は、「燃焼によって発生するもの」ということだが、「燃焼」は生物が溜め込んだエネルギーがその素となる。つまり、PM2.5の大半は組成上、元生物だ。だから、遺伝子を有しており、それが生きた細胞に入り込むことで、細胞が備え持つ複製機能を使い自分たちの増殖を果たす。

人間の経済活動・消費生活の高まりによって、大気の汚染はノンストップで進行している。火山の噴煙といった自然由来のものを圧倒して、人間が撒き散らすPM2.5は、地域によって青空すら消し去るほどに拡大生産されている。それが、冬季の乾燥した大気に乗って活発な移動をする。また、鳥インフルエンザのように、鳥たちが越冬のために大陸を渡り、世界中に拡散される。それは、多くの鳥たちを死に至らしめる。恐らくは、鳥の呼吸器系に寄生し、増殖し、肺機能を侵す。同様に、地上の動物たちの肺機能も侵すが、生命内で増殖を重ねたものが他の個体へ乗り移ることで感染のスピードを上げる。その地上の動物たちの中に人間が含まれることは言うまでもない。

だが、改めて言うが、ウイルスは生物ではない。だから、ウイルスは意図を持って自分たちの数を増やそうとしているわけでもなく、ましてそのために人間の体内に潜り込もうとしているわけでもない。単に、人間が切りもなく「経済的繁栄」を求め、化石燃料を燃やし続け、それが恒常的に生物の体内に作用をもたらすに至っている。それだけの話だ。
地球上の哺乳類という括りで見た場合、人間だけが異様な勢いで数を増やし、結果ウイルスが感染し易い環境を作るに至っている。大気汚染の著しい都会の人混みの中で、感染をした肺から発散されたウイルスが、肩が触れそうな距離にいる人々に乗り移る。換気のない室内で、ライブ音楽に熱狂的に酔いしれる人たちにも乗り移る。そして、感染に怯える人々が検査を受けるために集まった病院内で、収容し切れず廊下にうつ伏せになっている人などから、医療関係者にも感染が拡がる。つまり、武漢に始まり、クルーズ船でも見られた「コロナウイルスの純粋培養」が、世界の大都市の、中でも病院内で行われ、急速に拡大されている。

「ウイルスとの戦い」という言葉が、テレビ等で叫ばれ始めたが、私たちは「この戦いの本当の相手が、誰であるか?」それを滑稽なほどに理解していない。だからこそ、見えない敵を恐れる人間たちが、戦う相手を見誤り、感染を拡げる役割を果たしている。生物ではない(コロナ)ウイルスが、生物のように振る舞う。それは、ウイルスの発生源を突き止めようとせず、その発生源が人間の経済活動によって撒き散らされている「燃料(=石油)等」の燃えカスや粉塵であることを「不都合な真実」として封殺しているからこそ繰り返される。この点が、見事に隠されているため、「ウイルスとの戦い」は珍妙さだけが浮き上がってしまう。「ウイルスとの戦い」と言いながら、「経済活動を阻害してはならない」とも言う。これは、仮に私が唱えるように「PM2.5が発生源」であった場合、「地球温暖化要因は、人間の経済活動とは無縁」とするグローバル経済の推進役である欧米のリーダーたちには「絶対に認めてはなられない真実」となってしまうということだ。

毎年決まって季節性インフルエンザに罹って亡くなる人は、世界中で20〜50万人と後を絶たない。それは、人間がインフルエンザに手をこまねいて、なんら有効な手を講じて来なかったからだ。季節性インフルエンザのウイルスは人間の作り出した環境に強い。それに比して新型コロナウイルスはインフルエンザウイルスほど強靭ではない。だから、上気道でとどまっている限りは増殖するチャンスはほぼない。肺にさえ侵入させなければ、体内に入っても胃酸が葬る。その代り、運良く肺に入ることができた新型コロナウイルスは、ゆっくりと気兼ねなく自らを増殖させることができる。そのため、潜伏期間は長く、肺の中の細胞に取り憑き増殖を重ねた時は、いきなり肺の機能を麻痺させてしまう。が、肺まで辿り着けなかったものは、症状を顕すこともなく胃酸によって駆逐される。季節性インフルエンザのウイルスはもう少し、口腔内に留まる力を経験的に持ち、口腔内や上気道で細胞に取り憑き、増殖ができる。そのため、感染者は咳や痰などを通して、手当たり次第、周りの人を直接的に感染させていく。

上記が、季節性インフルエンザウイルスと新型コロナウイルスのちがいだ。つまり、口腔内で増殖する術を得たウイルスは感染力が強く、その生い立ち故に、年間1,000万人の感染者を出すが、合併症(誤嚥性肺炎・持病)などを通して、1万人くらいの死者を生む。対して、口腔内で増殖できない新型コロナウイルスは、運良く上気道の防御網を潜り抜け肺に達したものだけが、増殖する機会に恵まれる。だが、それらの人を一緒くたに集め、換気の悪い部屋に閉じ込めない限りは、感染リスクを高めることはない。だから、日本では死者は増えない。患者を一箇所に集めなければ、患者さんの肺の機能不全は、その人だけで留まり、増殖したウイルスも人体同様「孤独死」を迎える。が、自然換気のない病室で懸命の治療に励む医師は、患者の肺で純粋培養された大量のウイルスを吸い込んで、自らの命を縮めることとなる。いわゆる院内感染だ。一度人間の肺内で増殖したウイルスは、元はと言えば肺内部の細胞だ。だから、それを吸い込んだ人の肺を一途に目指す。あるいは、その増殖したウイルスの量、故なのかもしれないが、イタリアで亡くなった医療関係者は、新型コロナウイルスで死亡した人の1割にも及んでいる。

数字は嘘をつかない。私たちの科学は、自然科学を元にしている。だから、科学的に客観的に数字を凝視すれば、その道の権威でなくとも、真実を射抜くことはできる。だが、私たち人間は、その自然科学の元となった自然を大いに変貌させてきてしまった。生き物でないウイルスを生き物のように振る舞わせ、それを恐れるに至っているのは、自然破壊を何とも思わず、経済至上主義を貫くことを何より優先させてきた私たち人類だ!それを私たちが思い知ることなしに、この「ウイルスとの戦い」は終わらない。

ワクチンなどあろうがなかろうが、肺に入ってしまったウイルスだけに対処する十分な人工呼吸器と病床さえ整えていれば恐れるほどの感染症ではない。だが、今回の新型コロナウイルスで分かったことだが、日本が、世界で一番病床数が多いと言う。こんな体制で「感染症」を語ろうとする世界各国の政治や医療のオーソリティーたちが「どうにかしている」としか思えぬ。つまり、季節性インフルエンザにきちんとした対処さえしてきたなら、そもそも毎年のように20〜50万を死なせることなどなかった。だが、それを漫然と放置しておきながら、今回の新型コロナウイルスにだけ戦いを挑もうとしている「不可思議さ」は、どう語ろうが晴れることはない。

イタリアでは人工呼吸器が足らず、重症の高齢者は見捨てられ、重症のより若い層の患者に用いられているという。これは「医療崩壊」とは言えぬ。「医療」が力足らずを理由に命の選別をしてしまっている。これは人類が未知なものに手をこまねいた末、因果応報に慄き、ただ呆然と立ち尽くしているからこそ起こっている現実だ。これを「地獄絵」と言わず、なんと評せばよいのか!季節性インフルエンザと言うか?感染症には、「人工呼吸器と陽性の患者さんをきちんと一人一人を隔離できる病床さえ確保していれば、どうにか対処ができる」そう実感しているイタリアやスペインやアメリカの医療関係者は、相当数にのぼっているに違いない。

オーバーシュートという言葉が、一人歩きしている。が、冷静に今起こっている実例を、良く見定めてほしい。「感染者を集めて、自然換気のない部屋に集団隔離をして、ウイルスの純粋培養している」場以外では、オーバーシュートは起こっていない!同じヨーロッパでもドイツでは起こっていない。また、世界180ヵ国に感染は広がっているのに、どうして、限られて国だけで大量の死者が排出されているのか?なぜ?そうしたことに医療関係者の目は行かないのか?皆が、何か間違った観点に囚われ、盲目的な消耗戦を挑んでしまっている。

この「地獄絵」の続きは、これからアメリカを震撼させることとなるだろう。アメリカは先進国の中でも、平均寿命が一番低い。病床数もイタリアより少ない。アメリカは、今日(3月25日)現在で、感染者数も中国・イタリアに次いで3位となっている。それにも拘らず、トランプは「経済活動の停止は国を壊す」「復活祭(4月12日)までに再開したい」と言って憚らない。この男には、物事の「因果関係」というものがまるで見えない。「因果関係」が見えないために、「神をも畏れない」。それが、彼の人気を支えていると言えば、それまでだが、その発した言葉が彼自身の地位を断罪することとなる。「最も愚かな大統領」として、歴史に記されるようになるだろう。だが、それは、彼の存在を許した私たち自身の愚かさにも通じている。トランプはヒトラーと同じく、虚勢を声高に叫ぶ。人類の過ちを体現し、その過ちを極限まで推し進めようとする。マネー(=経済)で、頬を叩けば言うことを聞かない人間など一人もいないことを、トランプは知っている。これが、「大衆迎合主義=ポピュリズム」というものの正体だ。大衆に迎合するのではなく、大衆を迎合させる術をトランプは知り、それを臆面もなく実践している。

ウイルスの発生源は純粋な意味での「自然」ではない! 人間に限らず、生物は進化の過程で環境適応力を磨いてきたが、今や人間は自分たちの経済至上主義が作り出した人工物で自然環境を見事なまでに塗り変えた。が、その人間が変えたしまった環境への適応力を迫られている。つまり、この因果は、人類の欲望が生み出し、自らの「生命」を脅かすまでに至っている。同じことが、「地球温暖化」でも起こっているが、その脅威は、「まだまだ先の問題」として、世界の指導者たちによって脇に押しやられて来た。だからこそ、「直ちに行動を起こさねば、生死に関わる」という「応報」を「自然=神」が用意した。その啓示に人々が気づけば、人類は「平和」という名の「調和」を手に入れることができる。が、「神が与えた試練」というキリスト教の教えの根本に立ち返れなければ、人類の滅亡は避けられないほどの「因果」を、私たちは既に積み重ねて来てしまっている。

仏教でも良い。「全ての源」と呼ばれた「水の神=エア」でも良い。自然科学でも良い。人は自らの「奢り」を常に戒めて行く「理念」を持たなければ、否応もなく「滅び行く存在」だということだ。今の私たちは、自然の調和を乱す者として、「自業自得」から決して抜け出すことはできない存在だ。経済至上主義を纏った人類の欲望は、巨大化を続ける。この期に及んでも、「経済しか頭にない」ならば、私たちは「自然」の仕置きを甘んじて受ける他ないことを、改めて記しておきたい!
コロナウイルスとの戦いが、「経済至上主義を纏った人類の欲望との戦い」と自覚されることを切に望む。


(つづく)

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新型コロナウイルスでわかったこと−2


8.そうした「過去の対応の稚拙さ」が、結果的に今回の新型コロナウイルスの感染力を高めてしまったのではないか?と私は考える。つまり、真正の感染者とたまたま「熱があった人」や「体調の悪い人」たちを集め、「換気が悪く、飛沫感染が拡がり易い環境の中に一緒くたに放り込み、濃厚接触を可能とさせてしまった」。また、その環境下でスーパースプレッダーを養成した上で、航空機や大型クルーズ船を使って、保菌者を世界の隅々にまで送り込んでしまった。

9.だが、それだけのことをしても、まだまだ季節性インフルエンザと感染者も死亡者も比べようもないほどの小数だ。感染のピークはまだまだと言う人も居るだろうが、世界中が挙って「外出禁止令や自宅待機要請」を出すに至っているので、沈静化は間違いなく進むだろう。世界の指導者が「自分の保身のため」とは言え、一斉に「経済の停滞を顧みず」に「コロナウイルスとの戦い」に口を揃えた。ただ、彼らの見せた大仰なパフォーマンスの如何とは別に、SARSやMERSの例をみる限り、人々が異様なほどの恐れを抱かずに、間違った培養実験さえ犯さなければ、事は(それなりの数の感染者と死亡者は出るが)自然収束をする。

10.私たちが本当に成さなければならないことは、季節性インフルエンザの解明に尽きる。何度も言うが、毎年20万〜50万人の人を死に至らしめているものを放置しておいて、なぜ?「新型コロナウイルスのみを恐れるのか?」この摩訶不思議を放置するだけの「不都合な真実」を白日に晒すことができないなら、私たちの文明は「空回り」から逃れられない。

11.いきなり「論理の飛躍」と言われるだろうが、人間は「経済活動に資する」として、多くの「毒」を拡大再生産してきた。それは、対立する相手を抹殺するための文字通りの「毒」だけではなく、抗菌剤もまた一つの「毒」だ。農薬も然りだ。また、便利さを求めた末に大量生産され、大量廃棄を繰り返してきたプラスチックも、海を汚し、マイクロチップとなって大気を汚し、私たちはそれらを呼吸することによって、「肺」へ日常的なダメージを加えている。コロナウイルスが、風邪や季節性インフルエンザを通し、肺炎を併発させて重症化させることと、私たち作り出してきた「毒」やそれを撒き散らす異様なほどの「消費社会」とは無縁ではない!

12.地球温暖化も同様に、私たちが盲目的に繰り広げてきた「経済活動の賜物」だ。が、そう指摘する声に対しても、世論は「そうは言っても、だからといって経済活動を停滞させる訳には行かない」と言って憚らない。私は、「だからこそ、この新型コロナウイルス騒動は起こった」と言っておく。口を開けば、人は「経済こそは全て」と言う。地球温暖化が進み、この地球や自然が猛り狂って風水害が強大なものとなっても、そのことが自分たちの子や孫を窮地に追いやることが分かっていても、「今の経済がバブリーに成長してくれれば良い」と思っている人の数は減らない。

13.だからこそ、将来の話ではなく、今の今、人々が恐れおののき、熱病の如く狂喜乱舞する人々に自制を迫る事象が訪れた。世界は、滑稽なほど「自粛ムード」に包まれ、「経済の停滞があったとしても、このウイルスとの戦いに勝利しなければならない」と、グローバル経済の推進に余念のない世界のリーダーたちに言わしめた。滅亡に向かってまっしぐらに進むことを鼓舞し続けて来た政治家に、それが一瞬であれ、あるいはパフォーマンスであれ、「立ち止まらせた」事実を私は心底より評価したい。

14.この機会を無にすることなく、人々がもっと「健全に」「正しく」「賢く」「楽しく」生きていくために、自然への畏敬の念を取り戻し、「謙虚に生きる」ことを学ぶ機会としてくれることを切に望む。

15.そのためにも、世界中の株価が大暴落し、「経済活動がお金を代償としなくとも、必要不可欠な営みである」ことを世界中の人々が知る機会としたい。人間は、経済の拡大に固執することで、自らを制御する心を失っている。消費社会を賛美する傍らで、膨大なゴミを生み出し、それらを遺棄し続けている。人工物は焼却しなければ、姿を消さない。が、焼却しても大気中に漂い続ける。同様に焼却しなければ、マイクロチップとなって拡散し続けながらも、地球上や海や魚貝の体内や大気圏にとどまり続ける。それらが、地球温暖化要因を作るだけでなく、人体の最も気体に対し敏感な器官である肺に対し、作用を強め始めた。日本で肺炎(誤嚥性肺炎を踏む)に罹って亡くなる人の数は、平成30年で133,121人に達している。その死因順位は、がん・心疾患に次ぐ3位(平成30年人口動態統計より)だ。

16.人類は、自らの力で、既に生態系そのものや地球環境までをも変えてしまっている。それが人類を滅亡に導きかねないことも「薄々感じ始めている」。そして、今回の「新型コロナウイルス」を通して、「これは、将来の話ではなく自分自身の今に降りかかる差し迫った災いだ」と認知されることとなった。自らの「生死」を通して、社会を見直す。その時、人は初めて「曇りなき目で自分や社会を見つめることができる」。それが、「これは自業自得であり、因果応報ではないか?」という思いを人々に芽生えさせている。各々が、不要なまでに急速な勢いで拡大される「消費社会」の弊害に目を向け、そのことが地球環境や人類を含めた地球上の生命に如何なる危害を加えているか?冷静な目で見てほしい。それができれば、私たち人類にはまだまだ「まっとうに」やり直すチャンスはある!

(つづく)
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新型コロナウイルスに関してわかったこと−1


季節性インフルエンザによる推定死亡者数は、世界で20万〜50万人、日本では約1万人とされている。日本に於ける2019年の累計患者数は1,000万人を上回っている。また、2018年の日本のインフルエンザによる死亡者数は、3,325人という数字もある。この人数は医師が死因をインフルエンザと認めた人のみであり、インフルエンザで入院した人でも肺炎を併発したり持病が悪化し心不全などその他の病気で亡くなったりした場合は含まれない。(その人たちも含めると、最初に記した1万人という数字となる。)
それに対し、新型コロナウイルスによる死亡者数は世界で5,300人程度、日本ではクルーズ船を含めて28人、クルーズ船を除くと27人となっている。(3月14日現在)もう一つ興味深い数字を上げると、世界的に感染の広がったSARSとMARSの感染は、日本では起こっていないという事実(記録)がある。

上記の事実から、私は「なぜ?新型コロナウイルスが、これほど世界中の人々を怖がらせているのか?」が解らない。

1.新型コロナウイルスに感染した人の内、8割は軽症で(自覚)症状すらない人もいる。つまり、人によってはただの風邪よりも脅威は低い。季節性インフルエンザほどの高熱に晒されることもない。しかし、それが肺を犯すことになると、一気に重症化するとされている。が、それは何も新型コロナウイルスに限らず、季節性インフルエンザであっても、風邪であっても肺炎を併発すれば、軽症では済まない。肺は気体しか通さない仕組みを持っている。だから異物の侵入を押し返す機能を授かっている臓器であり、それだけの防御網を備えている。そこを突破されれば、軽症では済まないのは「道理」だ。だが、既に人工呼吸器を使った症状緩和や喘息薬オルベスコの投与など、いくつかの対処療法が取られるようになってきている。

2.確かに、まだ抗新型コロナウイルスワクチンや特効薬はできてはいない。だが、季節性インフルエンザにはワクチンができているにもかかわらず、それでも日本だけで年間1千万の人が感染し、1万人ほどが死んでいる。私が不可思議に思うのは、誰もそれを「人類の脅威とは捉えていない」ということだ。世界中で毎年20〜50万人がインフルエンザで亡くなっている。その事実を、受け入れ、日常茶飯事の出来事として見過ごしている。「なぜ、それをパンデミックとは呼ばないで、WHOは新型コロナウイルスをパンデミックと呼ぶに至っているのか?」その謎には誰も答えないし、そもそもそうした疑問を投げかける人も、今のところはいない。

3.新型コロナウイルスの死亡者は高齢者が中心だ。人口構成に於ける高齢者の割合が、(特に日本の場合は)大きなものになっている。だが、繰り返しになるが、季節性インフルエンザで死亡するのも高齢者が中心だ。ならば、現有のワクチンはどれほどの効力を発揮しているのか?を、まず吟味してみる必要性があるのではないか?季節性のインフルエンザには、「ワクチンや特効薬が既にある」ことから、「パンデミック扱いは不要」という論理は通用しないことは上述(2.)を見れば、明らかだろう?私に言わせれば、この抗インフルエンザワクチン及び薬剤(特効薬と称されている)に対しての有効性評価にこそ問題がある。現代医学が、「儲かる医薬品製造をする巨大な製薬会社」の意のままに動き、「現有のワクチンや薬剤」に対し、非科学的且つ過大な評価を賦与している。そうした「薬剤信仰」が、実際には「医師の減少を招き」、感染症を通じての医療崩壊を曝け出すに至っている。私の指摘したいのはその点だ。それこそが、私たちの社会が抱える「不都合な真実」そのものだからだ。

4.寿命は伸びたが、人は死ぬ。永遠の命などない。私たちの医学は、「殺菌」という概念を中心に発展を遂げてきた。「不老不死」を夢見た人々は、いつしか「金品に代えがたい命を永らえるためにご祈祷や薬」に大枚を叩くこととなった。現代は、医師が医療の中心に居るのではない。ビジネスとして巨万の富を集める強大な製薬会社が医療だけでなく、政治から経済に至るまでの全権を掌握してしまっている。だから、「現有のワクチンや薬剤への評価」は、そもそも客観性など持ち合わせていない。と言うよりも、私はその評価は科学的根拠に基づくものではなく、「でっち上げに近いものだ!」と述べておきたい。

5.そうした「現有のワクチンや薬剤への評価」との「辻褄合わせができない」事態が新型コロナウイルスの登場で表面化した。現代医学は、前述したように「菌との戦い」という概念を中心に発展を遂げてきた。「菌を殺すことで排除する」、それが薬剤と呼ばれているものの役割だ。だが、ウイルスは細胞を持たず、自己増殖もできない。そのため、私たちの概念にある「生物」とは呼べない存在だ。
「抗生物質は、細胞の構造や機能に作用するため、それらを持つ細菌には効果的だが、それらを持たないウイルスには有効ではない。また、ワクチンは弱毒化・無毒化したウイルスを事前に投与し、自己免疫を高めることで感染リスクを下げるものだ。ウイルスは構造が単純で、特有の特徴が少なく、細胞の中に潜り込んでしまうため、細胞に影響を与えずウイルスだけに効果を示すような抗ウイルス薬の開発は難しい。」(日本食品分析センターニュース2010.Augより)
「抗ウイルス薬の開発は難しい」と言うよりは、「今の医学はウイルスに対して的確なアプローチができていない」と言った方が正しいと私は考えている。

6.人間と細菌は、地球上の同じ生命という点で「紛れもなく」共存をしてきた。私たちの健康一つとっても、腸内細菌が多大な役割を担っている。が、そのことを人間が正しく理解し始めたのも、ごく最近のことだ。その分だけ、私たちは多くの考え違いや間違った考えを常識としてきた。そして、それはまだまだ是正されたわけではないし、同じような「いきさつ」から、私たちの「意識」や「ものを見る目」については、根本的な過ちが多く含まれている。その最たるものが、「共存しているものを、根絶やしにして排除しようという考え」だ。

7.「世界的に感染の広がったSARSとMARSの感染は、日本では起こっていないという事実(記録)がある。」と書いたが、調べて見ると、( NIID 国立感染症研究所)⚫SARS-CoV 2002年に中国広東省で発生し、2002年11月から2003年7月の間に30を超える国や地域に拡大した。2003年12月時点のWHOの報告によると、疑い例を含むSARS患者は8,069人、そのうち775人が重症の肺炎で死亡した(致命率 9.6%)⚫MERS-CoV
最初のMERS-CoVの感染による患者は、2012年にサウジアラビアで発見された。これまで27ヶ国で2,494人の感染者がWHOへ報告され(2019年11月30日時点)、そのうち858人が死亡した(致命率34.4%)
上記の通りだった。「世界保健機構」と呼ばれる機関が、上記のような調査しかしていない。こんな調査であれば、日本での感染者は「ゼロ」とされたことも頷ける。結局、日本では検査すら行わなかったということなのだろう。また致命率の高さも、症状が出た人だけを感染者と特定したために、「分母」を小さくカウントしただけに過ぎないと考えられる。いずれにせよ、上記の数値は、論じるまでもなく、すべてが科学的な根拠とはかけ離れたものと考えるべきと思われる。

(つづく)


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